“祭りばやし”をきいて
ー保存の意義と方法についての提案ー
若林淳之
文化財保護委員会が発足して間もない頃の席上で”神田囃子”についてはこの委員会としても調査、研究の対象とすべきであるという提案をしたことがあった。勿論保存のためにである。
以来私自身の不勉強と、意外の繁忙にまけて今日に至ったのであるが、この九月ごろ祭囃子の保存について何かやりたいという教育委員会の計画のあることをきいて、大変良いことであるから、是非仕事をすすめるよう個人的にお願いもしておいたという事情があった。
ともあれ、私にとってはこの町の祭囃子の全貌を今日まで知らなかったので、こうしたものの全体を知る意味からも、盛大に発表会が行われたということ自身意義のあったことであったし、関係方面の熱意と努力に深い敬意と感謝の意を表したい。
しかも全国的にも文化財の保護、保全が高まっている折だけにその意味は重大であったし、また富士宮市政にとっても文化都市を標ぼうする手前、これに手がけたことは看板に偽りないことを実証した一つの実績として、高く評価すべき記念さるべき行事であった。
”神田囃子”が”大宮囃子”かこの場合どちらでもいい。強いていうならば神田ばやしが良いのかもしれない。この囃子の全体がーー少なくとも私達のような門外漢には一ー余り市民に知られていないことには驚いたし、その内容もきわめて豊富であることをきいて二度、三度のおどろきであった。不勉強の一語につきるが、それにしても今にしてこうした全体を知り得た市民の驚きと感数はたしかに大きいものがあった。山車という極めて限られた舞台の中で演ずるはやしとしては、きわめて勇壮で、豪快であることは、何といってもこのはやしの圧巻である。しかも注意すべきことは、このはやしを伝承して演ずる人々の技術も極めて高い水準を示し、滅びゆく文化財という印象が余り感ぜられない程の格調を保っていたことも幸である。まづは私としても安心をしたし、これまで保って来た各町内の関係者の努力と精進は、ただ”祭好き”では片付けられないものがあり、ただただ敬意あるのみである。
ただこれから末長く保存し、このリズムを持ちつづけるということになると、これには義務もでて来ることである、責任もでて来ることであるから、”保存”には余程心を締めてかからないと大変なことになると思う。そこで私はこのはやしの保存について、若干の提案をし、関係者の注意と努力を喚起したいと思う。
こういえば甚だ高踏的で、不遜であるという非難を免れ得ないが、あくまでも一市民の願いということで、きき留めていただければ幸である。
元来こうした囃子といったある種の集団で行うものを保存し、長く継承していくためには、直接担当する人々にとってみれば、義務と責任がでて来ることである。だから私達のような第三者の口でいう程安易な、しかも簡単なことではないことは、私自身十分承知している筈である。
おそらくこれには多くの苦労と、これまで以上の努力の積み重ねがなくては不可能である。従ってこうした事情を十分に考慮をして保存のことは口にすべきであると思う。
しかし、こういえば如何にも保存の困難性から保存の必要性を否定するかのようにきこえるかも知れない。別に私はこれを否定するわけではなく、むしろそうした困難があったにしても、なお保存、継承の必要があるから、関係者のこれまで以上の努力をお願いしたいという意味である。
伝承者の話によれば、この囃子のはじまったのが、明治二十七、八年の日清戦争後ということをいっていたーー私は別なことも考えてはいるが、これは今後の研究課題である一ーこの囃子のはじまったのがこうした時点であったとして、これを受容する基盤がなんであったかが問題である。多くの伝承者のいう日清戦争の戦捷記念と、明治天皇のお誕生を祝してといっているのであるが、これも多分一つの意味であろう。しかしこれだけでは何年も何年もつづくわけがない。このはやしが受容される背景は、もっともっと重要な市民生活の願いがあった筈である。
私はこの願いを、明治二十年代から三十年代にかけてのこの地域の歴史的な動きの中に発見したいと思うし、今こそこれを発見する必要があるように思っている。
明治二十年代から三十年代のこの地方の動き、それは日本全国どこでも同様であったが、特にこの町を中心とした地域は旧幕時代以来の主要産業の一つであった駿河半紙の生産は衰え、かえてこれにかわる新らしい産業であった茶、養蚕にしても海のものとも山のものとも判断できないような沈滞した空気が明治初年からずっと続いていた。いわば町といわず村といわず転換期の沈滞に明け暮れていたのであった。
これが明治二十年代になると、養蚕業も漸く軌道に乗り、町のあちこちには、製糸工場が操業をはじめ、漸く沈滞から好況への着実な動きをはじめたし、また駿河半紙の方も、産地の先覚者たちによって、富士製紙が誘致され第一工場、第二、三工場の建設がすすみ、これに伴って富士山の林業開発も一時的にせよはじめられるといった時代で、町にはかってない明るさがつくりだされた時代であった。
こうした町の人々に沈滞から成長の何ものにもかえがたい安堵感と喜びが、勇壮で豪快なこのはやしを受容し育てていったものではなかったと理解されるのである。
私はこの囃子をほぞんするにあたって、このはやしが町の人々の哀歓と、町の盛衰を刻みこんだ町づくりのリズムとしても、保存し大切にすることが必要であるという点に、その意義を発見したいと思っているのである。
これはあくまでもこの囃子が今から八十年程前からおこったと仮定した場合である。
このように考えてみれば、毎年十一月三日がこの囃子のリズムと共に、来し方の町づくりを反省し、来る年の町づくりを想う象徴とすることができるならば、一つの市民運動の仲で、暖かく、しかもしっかりと保存することが将来ともできるのではなかろうか。
最後に、この囃子は各町内単位で継承されているのであるが、このことは大変貴重なことである。従って伝承の単位によってかなりリズムのニューアンスの異なったものがあることは事実である。こうしたニューアンスの相違はそれだけで意味のあることであるから、そのままで良いとして、矢張りスタンダードなものをこの際に編さん、編曲しておくことも必要ではないだろうか。このことは大変な仕事ではあるが、大変なことを前提としつつも是非これだけは実現しておく必要がある。またこのはやしにまつわるいろいろな記録、すなわち各町内毎にいつから始めたとか、あるいは当時の祭礼に関する日記など、あらゆる関係史料の蒐集をしておくことも、保存の上には絶対不可欠であると思う。私自身、文化財保護委員会という組織を通じ、微力を捧げるに労をいとはないが、そうした点でさらに保存のために努力すべきである。
こうした中で、また独特の価値も発見されるのではないかと感じている。
最後にこの発表会を演出した文連の方々の労苦に対して深甚のお礼と敬意を表したい。
ただ欲をいえばはやしは戸外でこのリズムを観賞する機会も与えられたならばと考えるが、果してどうであろうか。
郷士の無形文化財にはじめて接した感動から、筆の足りないところ、場合によっては誤解、独断があると思う。ご批判をいただければ喜んで訂正にも応じたい。
はやし保存の意義と方法について若干述べた次第である。 (おわり)
(静大教授・富士宮市文化財保護委員)
岳南朝日昭和40年11月25〜27日随想に掲載
参考
| 明治29年官幣大社昇格記念社人町 | 明治39年撮影提灯に湧玉宮本 |






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