富士宮まつりの歴史を関連資料から調べました。
江戸時代
- 万延元年(1860)「浅間様御田植群衆。芝居大入り。在々ヘハ町方ニて家臺(1860)多く引出スと申大評判故夥(おびただ)敷人出ル。」袖日記九万延元年6月28日
- 万延元年「浅間様御祭礼。東町若イ衆家臺出ス。夜九ツ過(二十四時過)神田橋ニ到る神田川橋ニて夜明けニ成。家臺明七日社領を引。芝居役者交り新宿熊吉と申ス若い者踊ル。」袖日記九万延元年7月6日
- 文久二年(1862)「若イ者俄之儀昨十日夜半中老安兵衛、猶八、□方へ来り町方之儀仰せ之通り相守り可申候間子供の座敷踊り之処大目ニ願ふ由申来ルニ付、神妙之儀ならず知らぬ分と申ス。今夜半若イ者神田橋ニ於てダシ俄の儀始め候処大雨ニて休ミニ相成事。十二日暁ニ家臺崩す。」袖日記拾文久二年9月11日
明治時代1868-1912
- 元年(1868)富士重本(亦八郎)が駿州赤心隊を組織し江戸に従軍。 /郷土歴史年表
- 万野原に士族移住※一説には移住した士族が閑居の徒然に、屋台を引き回し太鼓を叩いたという話がある。 ふじのみやの歴史
- 明治初期桜木町の通り(現139号)は無く、南北の交通は新立町を経由しなければならなかった。新立町はいわば立宿の延長であった。 ふじのみやの歴史
- 6年(1873)《太陽暦に改暦》明治5年12月3日を明治6年1月1日とした。 暦のわかる本
- 6年11月4日を以て大祭と定めることが静岡縣廳より允許せられた。(明治6年10月14日)※この年の11月の初申が4日(庚申)であったから。 浅間神社の歴史
- 8年大宮町初音町から出火し350戸が焼失する。この火災のあと神田橋東の魚屋が私設の消防隊をつくって富士宮消防団の基となる。 郷土歴史年表
- 20年頃大宮西町の大火-この後西町、元町の道路が拡張された。 村上氏による
- 27年《日清戦争》1894-1895日清戦争後富士宮囃子始まる。伝承者の話 若林教授取材
- 29年(1896)浅間神社が官幣大社となる。 ふじのみやの歴史
- 37年《日露戦争始まる》1904-1905
- 日露後、戦勝を記念して高瀬家より磐穂に山車を寄進。 常磐区誌
- 39年連雀町大宮亭前で若衆御殿女中に扮して記念撮影。花笠を背負った子供、咲花?のほおずき提灯あり。 富士宮の100年
- 明治41年6.1《電化》大宮町泉に富士電気泉発電所(出力 250KW)が完成し、初めて大宮、鷹岡、吉原、今泉の各町村に電灯が灯る。 郷土歴史年表
- 43年《日韓併合条約調印8月》
- 44年社人町、寺地と合同で『寿』を名乗り、今泉から屋台を借り、囃子方を根古屋より招き、習った弟子も混じり編成。 村上氏による
当時の祭組湧玉を親名に名乗る
川西
立(立宿、富士見町)
(新立町)-この後山車を造り神立として独立
松山(松山町、田宿、羽衣も合同か?)
寿(寺地、社人町)
高嶺(西新宿、下宿)
川東
磐穂(神田町、仲宿)
咲花(連雀、青柳、新宿)
==以上、村上氏による。
※池野氏によれば、新立町は元より独立した町内だったとのこと。
大正時代(1912〜1926)
- 2年《富士身延鉄道大宮まで開通》(1913)
- 2年寿(貴船)屋台を新造 ふじのみや祭ガイド
- 3年《第1次大戦》1914〜1919
- 3年頃羽衣山車引廻し手古舞あり山車上に火焔太鼓 富士宮の百年
- 4年《大正天皇御大典》(1915)
- 《大正天皇即位奉祝祭(12月)》同じか?それとも日を改めて別の行事を行ったものか?
- 7年《大宮町に米騒動》 郷土歴史年表
- 瑞穂山車建造 ふじのみや祭ガイド
- 8年 常磐底抜屋台新造 常磐区誌
- 9年 常磐底抜に芸妓を乗せて町を練り歩く 常磐区誌
- 10年 羽衣山車を購入 ふじのみや祭ガイド
- 11年 大和初めて祭りを行う。屋台は小泉2号より借り太鼓は富士市比奈より習う。 高嶺あたりで屋台の心棒が壊れ、後見も頼みかついで帰る。 大和区誌
- 12年《関東大震災9.1》
- 12年 常磐 神田(磐穂?)と分かれる。山車は常磐の所有となる。 常磐区誌
- 14年 瑞穂 中老会議に於て山車新調を決議す14.9.2 瑞穂青年会祭典記録帳
- 瑞穂 祭典実施(当番?) 瑞穂青年会祭典記録帳
- 15年 浅間 山車建造(10月) ふじのみや祭ガイド